高速道路論への反応

CNET Japan連載に書いた高速道路論には厖大な量の反応があった。反応の一部を引用する。
http://www.toyship.org/?itemid=114

今の時代は情報の量も質もスピードも膨大だから、ある程度までは成長するのが早いっていうお話です。(略)
なんか、これってすごく感覚的にはわかる。
他人に与えられたものってやっぱり「与えられたモノ」なんですよね。
そのモノをもし自分で獲得した場合には、目的のモノ+無駄な努力がかかるわけでしょ?
モノが他人から与えられた場合とか、Googleから与えられた場合にはその無駄な努力がかからないわけだけれど、その分、無駄な努力から得られたかもしれない何かが失われちゃうわけですね。(略)
こーいうのって、子供を持ったり、後輩の指導をしていると迷うところで、ここで教えるべきか、それとももう少し放っておいたほうがいいのか……というところで、最近はやっと放っておけるようになってきたような気がします

http://taketan.mydns.jp/xoops/modules/bwiki/index.php?BLOG%2F2004-12-07

まぁ確かに今まで手に入りにくかった、苦労して身につけなければならなかったノウハウがインターネット経由で手に入りやすくなった。確かに高速道路的だよね

http://gunjisatoshi.ameblo.jp/entry-f2c272be93c0c7cf82634b2b59803d88.html

守破離(しゅはり)」という言葉を思い出しました。
守破離(しゅはり)」とは、元は茶道か何かの言葉だったと思いますが、これはあるものを学び始めてからその道を極めるまでの三つの段階を表した言葉です。「守」は教えを守り学ぶこと、「破」は教えを元にしつつもそれを破るように応用すること、「離」は教えから離れて自分の世界を創ることです。(略)
「情報の整理のされ方と行き渡り具合の凄さ・迅速さ(序盤の定跡の整備、最先端の局面についての研究内容の瞬時の共有化、終盤のパターン化や計算方法の考え方など)」
という部分が「守(しゅ)」に相当して、
「24時間365日、どこに住んでいようと、インターネット(例、将棋倶楽部24)を介して、強敵との対局機会を常に持つことができる」
という部分が「破(は)」に相当する(「破」をガンガン試すことができる)のではないのかなあ、と個人的には思います。
つまり、昔なら厳しい修行を必要としていた守破離の「守」「破」については、「高速道路」の整備によって、誰もが恐ろしいほどのスピードで達成することができるようになって来ている、とも言い換えられそうですね。

http://dellton.com/blog/archives/2004/12/post_49.html

つまり、ITやインターネットの普及によって情報の入手に壁が無くなり、個人の努力によって相当高いレベルまで達することができるようになった現況の事情をかなり普遍的に多くの分野で共通に考えることができるということだと思います。

http://d.hatena.ne.jp/misoka/20041208#p3

ネットには、そのまんまの情報も落ちていれば、ヒントが落ちていることもある。
いずれにせよ、誰かが歩んだ道をなぞるだけなら、走ろうと思えば僕らはその上を結構お気軽にターボで走れるようになった。

http://kiri.jblog.org/archives/001253.html

梅田氏の語っている内容は単に学習回路と学習効果がネットによって速くなりましたかという話であって、おそらく業界として必要なブレークスルーであるとか絶対的付加価値とは何ぞやという本来語られるべき(一流になるための)課題について騙られているが、大渋滞を飛び出す仕掛けは何かのところで思案して止まっているという結論で終わっているのが麗しい。まあ、そんなもんだと思う。
 そんなもの、新しいルールを掌握する能力やセンスと、無関係なものの組み合わせをする試行錯誤の回数に決まってるだろーがとか思ったが、断定すると反証が出て恥ずかしい思いをすることになるので慎ましい大人然とした人柄で石橋を叩いて渡る性格の落ち着いた私は口が裂けてもそんなことは書けない。心から残念なことである。

http://handa.ifdef.jp/2004/12/blog-post_13.html

つまり、インターネットの普及により社会が高度に情報化され、さまざまな世界である程度のレベルまで技術力をつけるのに必要な時間が、とても短縮されているということらしいです。そして、高度で、体系化され、ある意味均一化された情報を元に高速道路を突っ走ってきたところで大渋滞が起こっている、というのです。みんな均一化されてしまって、なかなかその渋滞を突破する能力を持った人が出てこないのだそうです。
 これについては、なんとなく理解できるような気がします。建築設計の世界でも、おそらく同じようなことがいえるからです。図面作成がキャド化されてから、その動きは加速化されたようです。誰が設計しても、ある程度以上のものが出来上がるシステムが構築されています。

http://plaza.rakuten.co.jp/hazuregambler/diary/200412120000/

論集なんかを見ていると、そこに並んでいるタイトルは非常に複雑です。
『○○(ここには外国の国名が入ります)の××××における◆◆◆◆◆について』
『◎◎◎における■■■■■■■についての一考察』
非常に狭い分野の研究をしているんですね。(略)
…最後まで読み終えたでしょうか。
その狭い分野非常に精緻な理論構成がなされ、また比較・検討もしっかりしたものだと思います。
しかし、です。
そこまでたどり着くまでのプロセス、果たして検討されていますでしょうか。
例えば「○○先生は〜〜〜〜のように述べられている」と引用してそのままにしてはいないでしょうか。
言葉にただ乗っかっているような気がしてならないのです。
それははずかしながら私が論文を書いたときにもずっと書きながら思っていたことでした。
こんなに安易に引用してしまっていいのだろうか。
社会の分析をこんなに甘い検討でいいのか。
社会と照らし合わせながら検討をするべきなのに、小手先の解釈論に過ぎないのではないか、
非常に悩みながら書いておりました。そして恥ずかしいものを提出しました。
そこで気づくのは、狭い分野までたどり着くためにはそこにいきなりヘリコプターで降りることは困難です。
いくつかの道をたどっていきながら到達しなければなりません。
いまでは先人たちの研究が蓄積されているため、そこへの到達もかなりのところまで行くことが可能です。
高速道路に乗ったようにかなりのスピードで到達することができます。
しかしその高速道路、快適すぎるのか思考が停止しているものが散見されます。
先人たちの研究にただ乗っているだけ、その先で渋滞まではいかなくともこちょこちょ(失礼)研究を続ける。
そこまでにどういう景色があったのか、忘れている、見ていない、っていうか見えていないような気がしてなりません。

http://kabu.main.jp/archives/000227.html

インターネットの普及により、WEBサイトや掲示板などから質の高い情報が簡単に得られるようになり、売買を行なうための便利なツールや環境が簡単に入手できる時代になった。
株の初心者がある程度のレベルの投資家に成長するのは、昔に比べて遥かにスピードアップしているだろう。もしかしたら、この文章を読んでいるあなたよりも、株式投資の知識やテクニックに長けた小学生がいるかもしれない(実際に投資活動をしているかどうかは別として)。

http://c-kom.homeip.net/review/blog/archives/2004/12/3_3.html

高速道路が敷かれているということは、やる気さえあれば誰でも短期間で追いつけることを意味しています。「自分の価値」は「自分と同じことができる人の数」に反比例するという原則がありますから、ある技術がコモディティ化すれば
その技術で食っていける余地は減っていくのは間違いありません。(略)
過去に高速道路を作ってきた方々の試行錯誤のプロセス を自らに取り込めないまま進んでしまう恐れがあります。高速道路によって一気に「結果」だけを得るか、そこに至るまでの苦しみのプロセスを理解し吸収しながら進むか、その両者は決定的に異なります。

http://blog.y-iweb.com/archives/000079.html

かくいう私、「WEBデザイナー」もそうだ。画像をシャープにするとか、赤目を取るとか、縁を切り抜くといった作業はソフトが簡単にしてくれるし、ソフトの使い方がよくわからなくてもネットで簡単に検索できる。
イラスト?イラストの値段なんて、フリーの素材サイトや激安素材集が出回って暴落。手間暇考えると、とてもイラスト描いて食っていこうとは思えん。
WEBページの文字修正なんて、まさに今、私が使っている「ブログ」なら、誰にでもできる。もし万が一わからなくても、検索したり「はてな」かなんかに書き込めば、誰かが教えてくれる。

http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/001909.html

情報に飢えていた人間にとって、インターネット(WEB上の)情報はよだれの出るほどすごいものだと思います。古い人間で地方に育ったものにしてみれば、これだけの情報源がもし子供のころにあったら、どうしていただろうと思うことはよくあります。この「高速道路」は二つの意味を持っていると思います。ひとつは意欲さえあれば今までになかった速度で自分の望みのものが手に入ること。もうひとつは高速道路を走ることによって、自分で道を探して走ることが出来なくなること。羽生さんはおそらくこの二つを感じたのではないでしょうか。自分で苦労して考えたことがあっという間に手に貼ることはすばらしいのですが
自分なりの道の探し方、作り方の訓練がしなくなってしまう恐れはありますね。Posted by 松島好則

http://www.mohorovicic.com/blog/archives/2004/12/20041213_1420_index.html

ネット環境の整備によって人々の知識的な蓄積量はプロアマともほとんど差がなくなってきている状態であり、そこから抜きん出るためのプラスアルファがねえために「行き着けるところまでは運んでくれるけど出口から先にいけねえ」と。(略)
ところでこれ、マンガ描きにもあてはまらねえだろうかしら。
と考えてみる。
「マンガ描くのが上手くなるのに近道なんかない」とよく言われるが、ホントにそうだろうか。
単にみんなが高速に乗っかってるから相対速度として体感してねえだけで、絶対速度から言えば現に今の若い芽はどう考えても15年前の数倍のスピードでカッ飛んできてるじゃねえですか。
30歳以上のマンガ描きは冷静に周りの19歳アマチュアや22歳アマチュアを見渡してみるといい。
自分が19のとき、彼らが描くようなレベルの絵を描けただろうか。
自分が22のとき、彼らほど高い感受性を持ってマンガを作れただろうか。
そして彼らが今の自分の歳にまで育ったとき、どれほどの器に成長しているか想像がつくだろうか。
追い越されまいと最先端の時流を取り込むべく日夜ヒッチャキになったとしても、それは所詮は排気量の少ない型落ちしたクルマの悪あがきに過ぎねえのだろうか。
それはある意味で正しいだろうし、同時にある意味で間違っているだろう。
「マンガ道に近道なし」と同じぐらいの頻度で唱えられるお題目に「画力とマンガ力は違う」というヤツがある。曰く、マンガ力は作者の積み重ねてきた人生経験とそこで培ってきた洞察力による部分が大きいからである、と。
じゃあ今の若い芽には人生経験が足りねえと果たして言い切れるか?
20年前とでは情報インフラがパラダイムから全く異なっている現在、我々おっさんより遥かに効率よく画力を向上させてきた彼らには少なくともそのぶんだけ人生経験を豊かにする時間が浮いてるはずだぞ。それすらも20年前とではパラダイムから違う情報インフラによってだ。

http://plaza.rakuten.co.jp/catfrog/diary/200412140000/

高速道路のない世界というのは体系付けや定跡化が進んでいない分野だったり、力技的なものだったり、感覚的な要素や経験の多寡が情報や知識の蓄積よりもものをいう世界だったり、のことだろう。

http://joe.cocolog-nifty.com/tektek/2004/12/post_4.html

同じようなことを、今の音大生にも感じる。
CDをたくさん聞いている
けど
流れていっているだけ。
他の分野でも感じる。
流れている情報量は、多い
だけど、定着していない。
勉強のしかたが、浅薄になっている子が、多い。
情報を取捨選択してもらうこと
「これだけ覚えておけばいいよ」といってもらうこと
を求めている子が多い気がする。
見かけ上の点数はいい
だけど、それは、見かけだけ。
という子も、増えている気がする。
そこそこのレベルまでは行ける。
そこから先は・・・
どうなんだろう。

http://d.hatena.ne.jp/kunit/20041207#1102347594

たまたま就職して最初の仕事がUnixを扱うところだったのだが、今にくらべれば環境は劣悪で必要なツールがそろってないもんだから、自分でソースを拾ってきてmakeして、コンパイルが通らないからソースをよんでいじって無理やりmakeを通すなんてのが当たり前だった。もちろんネットで情報を簡単に見つけることなんてできなくて、ドキュメントがあるツールなんてほとんどないからソースを読むしかなかったので読んでいただけだった。今の人たちからすれば通らなくて済む部分を通ったので、変なノウハウはいっぱい持っている。で、それが今の自分をつくっていると断言できる。

http://d.hatena.ne.jp/quelo4/20041212

伊藤氏はソフトエンジニアが、ネットの発達によって、他人の書いたソースコード(多分、コンピュータソフトのプログラムのこと、と言っていいと思いますが)を読むことができることになって、急激にレベルアップするようになった、という話です。昔から、ソースコードは秘密中の秘密で、例えばウィンドウズ自体のソースなんて見れないわけですが、オープンソースという、ソフトを世界中の人がボランティアで作成し、ただでみんなが使うような動きができると、そうしたソースが見れる、さらに検索すれば、ネット上にいくらでもソースが蓄積されている状況な訳ですね。
こうなると、世界中の一線級のコンピュータエンジニアの書いたプログラムを直接読んで勉強できるわけで、一気に世界レベルのプログラムを書けるようになる(ところまで勉強できる)という話です。これを「学習の高速道路」と呼ぶわけです。(略)
将棋、コンピュータエンジニア。それだけじゃないですね。学術世界でも、最新の論文がいくらでも読める。実験や調査をやらないですむ学問領域では、ネット上で他の論文を勉強することだけで、いくらでも新しい論文が書けますね。
MIT(マサチューセッツ工科大学)の授業はあらかたネット上で勉強することができます(英語ができないと駄目ですが)。自覚するか否かにかかわらず、私たちの周りには高速道路がびゅんびゅん通っていることは確実。

http://www.alles.or.jp/~spiegel/200412.html#d06_t1

まぁでも良く考えてみれば,この手の話は(スケールやスピードが違うけど)良くある話。私がペーペーの新人の頃は雑誌や書籍で教わっていたことを今の人たちはネットでやっているに過ぎないような。結局「誰かが書いた」ことは既に「古くて終わってる」内容なのだ。
昔は山の一合目からせっせと歩いていたのが道路が整備されて五合目までは車で登れるようになった,と。でも,それってスタートラインが先延ばしにされているだけ。誰かが教えてくれること,あるいは何かに書かれていることは所詮「学習」レベルでしかない。本当に必要なことは誰も教えてくれないしどこにも書かれていない。
他所の分野あるいは最近の若い人についてはよく分からないけど,職業エンジニアになると3年目あたりで大抵みんな壁にぶつかっていたらしい。つまりそこで「道路」が終わっているのだ。そこから以降をどうするかでいくつかの選択肢が用意されている。頑張って道を作るか。すっぱり諦めて管理職になる(もしくはスピン・アウトする)か。それとも私のように「大渋滞(=没個性)」のぬるま湯に浸かり続けるか。(まぁでも「ぬるま湯」で喰っていけるのはせいぜい40代くらいまでだろうけど)

http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/001893.html

片や数年で誰もが参考にするコードを書くハッカーに育ったかと思えば、20年経っても当時のままというプログラマもいる、彼らの決定的な違いは何だろう? 個人のセンス、能力? いえ、それは成長の過程のなかにインターネットというメディアが存在していたか否かが決定的なのでした。
インターネットを経由すれば、他人のコードを簡単に読むことができます。特にPerlのようなオープンなプログラミング言語においては、参考にすべきコードはいくらでもあり、その開発者が海の向こうにいようと世界の裏側にいようとわずか数秒でアクセスすることができます。最高レベルのコードを参考にコードを書けば自然と最高レベルに近づくのは当然のこと。また、情報へのアクセスに実質的な限界がないネットの世界ではよりクオリティの高いものがすぐ近くに存在するかもしれないという可能性が常に存在し、それがより高いクオリティを追及するモチベーションとなり得ます。
一方、ネットが普及する以前の環境においては、他人のソースコードを参照する機会などはなかなか与えられず、与えられたとしてもそれがどの程度のレベルなのかどうかを知る術もありません。他を比較対照とするのではなく、過去の自分を比較対照とし成長をしていかなければなりません。その両者の成長スピードに圧倒的な差が生まれるのは当然のことかもしれません。(略)
プログラムのソースコードのように、「ネットワーク上を伝播することが可能な物」がナレッジの基礎となるような分野においては、その道のプロになるための高速道路が敷かれているのが昨今の状況なのです。

http://d.hatena.ne.jp/borjia/20041129#p1

インターネットの出現によって、法律分野でも情報の共有化は急速に進んでいるのを肌で感じます。登記のオンライン化などは、司法書士などの専門職に対しても影響を及ぼしており、ますます競争が激化するように感じます。
弁護士だって、おちおちとしていられない。

http://blog.goo.ne.jp/copper_the_public/e/c843aecc00557a839ee0732749648e00

オープンソース化の大波を受けて、かなり高度な要素技術やら部品の類(Perlの各種packageが典型)が無償もしくはタダ同然で利用可能になってきたこと、そしてそれを簡単に試行実験できる環境が(これまた無償もしくはタダ同然で)すでに整っているので、使う道具に関してはもうプロ・アマ関係ないと痛感しているから。いわゆる技術のコモディティ化ということですか。技術に関しては、個人も企業もプロアマ入り乱れてのlevel playing fieldになっちゃってる。しかも国境を越えている(中国やインドのエンジニア達とも競争しなければならない)。
そうなると、技術を使って何をするかというその中身(技術以上のなにか)、プラス他人よりいかに早くそれを実行に移すか(スピード)、という点に競争優位の力点が移るのは至極当然ではある。つまり、情報技術(IT)産業と言いながらも、もはや情報技術だけでは飯の種にならないという競争環境に至っているわけだ。これはかなり皮肉なことではなかろうか。

http://blog.livedoor.jp/zep716/archives/10008786.html

最先端への技術情報へのアクセス経路が比較にならないほど整備された。このことで、「誰々しか知らない」という技術が非常に稀になった。つまり、技術の相対的価値が低下した。そして、技術を知るものである、エンジニアの価値も相対的に低下することになった。