新刊「米長邦雄の本」を読む。
僕にとっての米長邦雄といえば、まずは「人間における勝負の研究」であった。昭和57年、彼が39歳のときの著書である。
「「将棋で言うと、最善手ではないけれども、指してもよい手ならOK、すなわちどれにしようか、ということを思い悩まずに指してよい。しかし、悪手を指さないということには、十二分な配慮をする。将棋には最善手とそれに近いものが一つか二つあると、一方で悪手が百くらいあるのが普通ですが、人生も同じようなものではないかと思います。道を歩いていると、あたり一面がほとんど悪手の山で、その中で最善手かどうかは断定できないが、悪手ではなさそうな細い道がある。そして、いかにして悪手の山に踏み込まずに、正しい道を歩んでいけるか。これが、私の言う「許容範囲」ということであり、そういう意味では、人生の生き方と将棋というのはよく似ていると思うわけです。
将棋で最善手を見つけることは、本当に大変なことです。しかし、最善手を見つけることも大切ですが、それよりももっと大切なのは悪手を指さないことです。だから、悪手でない道なら、端でも真ん中でも、どこを歩いてもよいのです。(略)
要するに、悪手の山の中を歩いているようなものが「人生」なのです。
こういう状況の中では、悪手を指さないことくらい大切なことはない、という気さえしてきます。そして、少なくとも現在の自分よりも悪くならない手、ちょっとでも向上する手なら、どんな手を指してもいい、という考えも浮かんできます。」(p21-22)
「悪手の山の中を歩いているような」人生においては、「悪手でない道なら、端でも真ん中でも、どこを歩いてもよい」というシンプルだがとても深い考え方は、知らず知らずのうちに僕の支えになってくれていたような気がする。
90年代の大半をアメリカで過ごし、今もアメリカに住んでいるわけだが、93年と94年だけは、春から夏を東京で過ごした。つまりこの2年間だけが、きちんと名人戦を鑑賞することができた唯一の時期だった。その最初の年(93年)に、米長新名人が誕生。二年目(94年)に、その米長名人に勝って羽生名人が誕生した。
新刊「米長邦雄の本」冒頭の米長自らの書き下ろしベスト自戦記で、彼は、94年の名人戦(対羽生)の第四局(三連敗後の)を取り上げ、あの懐かしい6七玉を、「生涯唯一と言っていいほどの名手」(p31)と自賛している。確かにこの6七玉は、衛星放送を食い入るように見つめていた東京での日々を、鮮やかに思い出させてくれる。
同じベスト自戦記の中で、米長は40代で直面した壁と、その壁を米長道場創設によって乗り切った考え方を、かなりわかりやすくこう語っている。
「私はすでに過去の人間になりつつあった。(略) そこで私が打ち出した方策は、谷川浩司を筆頭とするその世代、すなわち私よりも二十歳近く違う年齢層に勝つために、さらに彼らよりも若く、研究熱心な者を集め、そしてみずからが彼らと苦楽をともにするというものであった。(略) では私はこの研究会で何をしたか。私は若い人から若さと研究成果を学び取った。そして、私自身が自分の経験と人生観、そして幅広い人脈、これを後輩に伝えていくという双方向性の研究会であった。」(p23)
弟子の中川大輔は、当時のことを同じ本の中の「人生の師」というエッセイで、こう書いている。
「盤を前にした米長先生は、まさに真剣そのものであった。(略) 「将棋とは、このくらい真剣に考えるもの」ということを、その姿勢から学び取ることができた。(略) 盤側で見ておられる師匠が、ひと言ふた言つぶやく言葉には千金の重みがあった。ちょうど伸び盛りの20代前半、砂漠が水を吸収するがごとく、体の中にしみ込んでいった。」(p102)
では全盛期の米長邦雄の強さとは何であったのか。
同じく弟子の先崎学が、さすがに洞察深く、こう指摘する。
「米長玉の意味は、単に囲いの形ではない。序盤戦から終盤戦を見据える感覚のようなものである。序盤で一路でも中央から遠ざかっておけば、必ず終盤でそれが生きてくる。この発想はおそらく当時はなかった。皆終盤で負けるわけである。(略) 今思い出しても、終盤での、ことに玉のまわりの強さは飛び抜けたものがあった。いわゆる「ゼ」。絶対詰まない形に異常に明るいのである。(略) 皆が知らないことにいち早く気づくのはこの世界で勝ち組にまわるためのひとつの要素である。大半の棋士が気がつかない「玉のまわりの大事さ」にひとり気がついているのだから、必然逆転勝ちが多くなる。」(p98)
何の世界でも同じだ。ある世界でトップを張るためには、その世界のプロが誰も気づいていない本質を、一人だけ先に把握することがカギを握るのである。